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院長コラム

2014-10-07

院長メッセージ(24)大和・こころを考える(7)

incyomessage-24-img平成24年秋に、日本精神科病院協会の会議が島根県・松江市で行われた。地元の先生は、「松江は、町を歩けば、どこでも史跡に当たる。」と言われた。

島根は、古事記の編纂1300年(平成24年)、出雲大社大遷宮(平成25年)のメモリアルが重なり、本当に神話の国であることを再認識させられた。

古事記の成立について、【「古事記」の真実:長谷部日出雄著・文春新書649】を手がかりに考えてみたい。

古事記(712年)は、神代の天地(あめつち)の時代から推古天皇の時代まで書かれている。「上・中・下の全3巻」で構成されている。仏教が538年(552年?)に日本に伝来しており、推古天皇治世に遣隋使小野妹子を派遣して、17条の憲法、冠位12階など国造りがされた。天武天皇治世(673~686年)になると伊勢神宮を現在の場所に建立し国家神道を確立した。また法隆寺、薬師寺を建立し国家仏教をも確立したといわれている。神道と仏教の世界観が混合する神仏習合が起きた。759年に万葉集が出来た。

【文字を知るまえの古代大和が、今と比べものにならないほど、複雑で豊かな陰影を持つ音声言語の世界であり、壮大な詩的言語の宇宙であったことは、『万葉集』によって今日の目にも歴然としている。そうした言語を忠実に筆録した太安万侶の和漢折衷、音訓併用の文体は、果たしてかれ一個人の発明であろうか。天武天皇は後世に伝えることを主眼とした『古事記』の製作意図からして、当然撰録までを視野に入れていたはずで、その場合、漢字を仮字として翻字を併用し、短句単位に返読を積み重ねる変体漢文体表記と交用することも、基本の方針として初期の段階から決めていたと考えられる。とすれば、稗田阿礼はその方針も詳しく筆録者(太安万侶)に伝えたであろう。・・・・・8世紀から21世紀の今日までつづく話し言葉(音声言語)と書き言葉(文字言葉)の双方の働きをそなえ、公用語として官民の別なく国民全般に通用する和語―すなわち「日本語」の誕生であった。日本人の自己同一性は人種でも住所でもなく、日本語を母語とする事実によって決定されるとすれば、それは『古事記』によって確立されたのである。漢字という異国の文字を受け入れることからからはじまったこの言語の再創造は、他者を抱擁することによって進化するわが国の文化の二元的な構造を、何よりも具体的に示す根本の規範といってよいであろう。大胆すぎる発言と思われるに違いないが、天武天皇がそれまでになかった文語としての日本語の父であり、難産のすえに健やかな第一子を無事出産した太安万侶が母であるといっても、決して過言ではないと考えられるのである(同著、50頁~51頁)】

北海道のアイヌ【アイヌとはアイヌ語でカムイ(神々)に対して「人間」という意味で民族呼称でもある。ウタリは「同胞」という意味『北海道アイヌ協会より』】には、ユーカラという平和で雄大な叙事詩が、口承で伝えられてきたことを金田一京助らによって再発見された。

世界的に有名な大英博物館に鎮座している【ロゼッタストーン】には、プトレマイオス5世のために紀元前196年にメンフィスで出された勅令が刻まれていという。この碑文は三つの文字、すなわち古代エジプトの語の神聖文字(ヒエログリフ)と民衆文字(デモティック)、ギリシャ文字で記述されている。細かい違いはあれども本質的には同一の文章が全部で三つの書記法で著されていると推測され、1822年に、シャン=フランソワ・シャンポリオンによって解読された。大英博物館を見学したときの日本人研究員に説明をして頂いた。

そうであると国家としての統治をするためには、「公用語して官民の別なく国民に全般に通用する言葉を要する」のが無理のない解釈である。

古事記は、天武天皇が、日本で初めて国家統治を目指したもので、最古の歴史書と言えるのではないか。

大和ことばについて、もう少し考えてみる。

【日本精神分析:柄谷行人著・講談社文庫】によれば、【やまとこころとは、国学の父ともいうべき本居宣長は、漢文を訓読みにするために日本人が独自に考えたテニヲハ(弖爾乎波)こそがやまとだという。・・・・そして万葉仮名は、七世紀ごろの万葉仮名の使用-それによって『万葉集』や『古事記』が書かれた-は、もともと朝鮮で考案されたもので、日本のそれは半島からの帰化人によって考案されたと思われるのです。(同著89~90頁)】

【ネーションと国家を区別する必要があります。たとえば、国家につながるナショナリズムが巨大な権力や栄光を目指すとしたら、ネーション(民族)につながるナショナリズムは、小さなもの、そして、むしろ哀れなものの共同性を基盤にするのです。宣長の考えは、まさにそのようなものです。彼は、仏教や儒教のような偉大な観念が日本にもあったなどとは云わないのです。むしろにほんには知的・道徳的なレベルでは何もオリジナルなものはなかった、と彼は云うでしょう。ただ、知的・道徳的原理によって否定され隠蔽されてしまう小さな感情(もののあわれ)を大切にするのが、やまと魂だというわけです。(日本精神分析89頁)】【歴史的に西洋でも東洋でも、感情は、知性や道徳性からみて低いものとみなされています。それに対して、宣長は、それが知性や道徳性よりも深いものとなりうると考えた。やまと魂とはそうした細やかな感情を尊重するものです。(同著88頁)】

私なりに大和こころの例としてもののあわれを書いてみる。

784年に征夷大将軍に任ぜられた大伴家持は、万葉集に985首の歌を載った歌人である。時代を代表する武人がこれほどまでに切なく、いとおしく、やさしい歌を詠めるこころこそ信じがたいことである。

なでしこは 咲きて散りぬと 人は言へど 我が標めし野の 花にあらめやも

撫子の花が咲いて散ったと人は、噂をしているが、私が標した撫子である訳がないでしょうね。紀女郎は心変わりをしてほしくない。今でも思い続けているに違いない。

もろともに あわれと思え やまさくら 花よりほかに 知る人もなし(百人一首)

作者・行尊(1055~1135年)は、伝によると、奈良時代に役小角が開いた密教の修行者であるという。不眠不休、食事もとらないで、厳しい山での修行中に、山桜に出会った時の歌である。この美しいさくらを、ともに切ない、いとおしいとみてくれる人はいない。さくらを見ながら自分の孤独や切なさを分かってほしいと泣きの入った女々しい真情である。

源氏物語(1008年頃)にある「もののあわれ」は、光源氏を主人公に展開する宮廷の天上人の恋、失恋、嫉妬、喜び、哀しみ、悔しさを登場人物が真の情けを織りなしているところが美しく、心を打つのではと思う。

光源氏亡きあとの薫君の物語ともいえる宇治十帖の浮舟にもののあわれを感じる人が多いのではないか。

光源氏の弟の八の宮には、大君(長女)中君(次女)三女浮舟(異母姉妹)がいた。薫君は大君に心を寄せていたが、大君は亡くなる。中君は、悲しむ薫君に大君似である美しい妹浮舟を、引き合わせる。薫君は浮舟を宇治川の川向こうに、住まわせる。薫君の庇護を受けていた浮舟は、夜に忍び寄る薫君の恋敵の匂宮が密通してくるのを受け入れる。薫君は、浮舟がならぬ恋に落ちたことを知らずに宇治から京の都へ向かい入れる準備をする。一方、匂宮はそのことを知って、必死に宇治川を渡り、連れ出し、密会をする。

橘の小島の色は かはらじを このうき舟ぞ ゆくえ知られぬ

橘の茂る小島のように、あなたのこころは変わらないでしょう。しかし私のこころは、激しい流れの宇治川の水に浮いているだけの小舟のように、揺れてどこに漂うかわからない。

その後ひとり悩んだ末に浮舟は、宇治川に身を投じる。横川の僧都に救われ、浮舟は、僧都に出家をすすめられ、出家を決める。薫君には戻らなかった。伝によると横川の僧都とは、「仏の前では、身分や名利など貴賤の関係はなく、誰もが等しく救済される人である」と往生要集を著した源信(942~1017年)その人であるという。

504年推古天皇治世に17条の憲法、冠位12階が成立した。645年、大化の改新、672年、壬申の乱があり、天武天皇治世(673~686年)に古事記が編纂された。710年奈良時代、桓武天皇治世(781~806年)時に794年平安京に遷都した。797年坂上田村麻呂が征夷大将軍になり802年朝廷に反旗を立てて戦った、岩手県胆沢の阿弖流為を倒した。

804年に最澄、空海を遣唐使として仏教の勉強に留学させた。最澄は天台宗を空海は密教をもたらした。

905年古今和歌集が編纂された。995年枕草子、1008年頃、源氏物語が世に出た、1053年、宇治に平等院鳳凰堂が建立された。万葉の時代から豊かな情感が詠われ、神道、仏教の共存がもたらされた。日本語を手に入れた朝廷から庶民まで、武人でさえ弱みや哀しみを詠い、修験者もまた悲しみや泣きの歌を詠んだ。女官もまた本心を歌で表現できた。本音と建前が同じ価値観で美しいハーモニーを奏でた不思議な時代である。この美しいハーモニーこそ、本居宣長の言う【それ(感情)が知性や道徳性よりも深いものとなりうると考えた。やまと魂とはそうした細やかな感情を尊重するものです。】という意味ではないか。神仏、男女、身分などの区別はあっても融合する感情を第一とする「大和こころの原型」と言えないだろうか。

やがて周知のように、天皇家、摂関家、源氏、平家の争いが1156年保元の乱、1160年平治の乱を起こした。平清盛の武家政権が成立した。娘徳子を高倉天皇に入内させ「平家に非ずんば人に非ず」という平安文化を生んだ。

そして大和こころは消えた。

たそかれと 我をな問ひぞ 長月の 露に濡れつつ 君待つ吾を(万葉集第10巻2240伝柿本人麻呂)

黄昏時もすぎ、夜も更け露に濡れても、愛しい女をここで待っている。私には、この歌が「大和こころは消えて、再生しないから、いつまでも待ち続けるしかないのだよ」という現代へのメッセージに思えてならない。

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