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院長コラム

2016-06-20

院長メッセージ(29)中原中也について(3)時代を超える心性

image11937年(昭和12年)10月22日中原中也は死んだ。

文芸誌「文学界」と詩誌「四季」が追悼号を出した。文学界の編集長は小林秀雄で、お互いに無名ともいえるときからの文学仲間であった。小林は、中也と詩・小説・評論などは当然、友情と恋敵など思春期のすべてを共有していた。その追悼号に「死んだ中原」という詩を載せている。

君の詩は自分の死に顔が
分かって了った男の詩のようであった
ホラ ホラ これが僕の骨
と歌ったことさえあったっけ

・・・・・・・・・・

あゝ、死んだ中原
例へばあの赤茶けた雲に乗って行け
何の不思議なことがあるものか
僕たちが見てきたあの悪夢に比べれば

・・・・・・・・・・・・

更に、追悼号の最後に、告知板に書き足している。中原の遺稿という題で

【死ぬ3週間ほど前に、彼は「山羊の歌」以後の詩で、詩集に纏めて遺そうとするものを全部清書にし「在りし日の歌」なる題を付し、目次を作り後記まで書いて僕に託した。・・・・・・詩の出来不出来なぞ元来この詩人には大した意味はない。それほど、詩は彼の生身の様なものになってゐた。どんな切れっぱしも彼自身があった。

 

詩誌「四季」は、中原中也追悼号を1937年(昭和12年)12月号に出した。中原中也の晩年おおよそ10年間を傍で寄り添った関口隆克(たかかつ)が寄稿している。彼は、当時スルヤという「現代」音楽グループに属し、後年東京にある開成高校の校長になった教育者である。「幻想と悲しみと祈り」という題で寄稿している。

僕は10年前から中原とつきあったが、遂に彼を識ることはことが出来なかった。彼の言葉で云へば、中原の中へ這入りかけて中途で見当をつけて、逆戻りし帰って了った。僕の中原について想うことが、何時も門外漢の一観察に過ぎないのを悲しく思う。・・・・・・・

中原は長男を失って随分悲しんだが・・・・・・窓から暗い月夜の街を見ていると、瓦屋根に上に白蛇横って中原を眺めていて、それが確かに子供を奪った奴なので、踏み殺そうと思って屋根に上がったのだと云った・・・・・・。その内容から見るならば・・・・・・。彼の内奥から発する悲しみの幻像であり、所謂詩的幻想の具体像であって、寧ろ中原は、こん幻想をもって生まれ、之と共に生き之と闘い之をやしないつつ真剣な生涯を続けて来たのだと云いたい。人に対する場合も同様であった・・・・・・・。中原の場合は、幻想は彼の魂と共にあり良識と共にいきていたので、・・・・乱暴したり人嫌いになったり自己嫌悪陥りて、孤独の内に沈潜することが屡々であった・・・・・

そんな時には中原は聖書を読み涙を流して独り祈っていた。祈りは真剣で痛ましく、耐え難い思いをさせたが、やがて彼を優しい静かな人に戻し、何時も人を愛する心とそのために苦しみ悩む心とを縫い合わせた美しい詩稿を書かしめていた・・・・・・・・・・

子供が亡くなってから・・・・・・。死児天国の神の下に戻り神となると云うキリスト教の考えよりは、西方浄土に嬉戯していると説く仏教の説が意味深く憶えると語った・・・・・。

入院の急報によって駆けつけたとき、きれぎれの言葉の内に「二つの教を同時に信じること・・・・・・。同宗同拝云々」と云う呟きが聞き取れた。なにをいおうとしたのであろうか。・・・・・・・・・

 

今、臨床精神科医としては、この二人の追悼文が印象深い。

小林秀雄(1902~1983)は、22歳頃、中也17歳頃に、出遭った。中也が死んだときには、時代を代表する詩人ではなく文学者となっていた。

関口隆克(1904~1987)は24歳頃、中也21歳頃に出逢った。教養人であり、母ふくが後年「中也が、一番好きな人だった」と言わしめる関係であった。

このふたりは、中原中也という詩人のまっすぐなメンタリティと透明な詩の質と斬新さに驚きと畏敬の念を待たざるを得なかった。追悼文にそんな気持ちがにじみ出ているように思える。

青春時代とは、自分が何者でもなく、何者にもなりえる可能性を持ち、心性としては、肥大した自我の高揚感と根拠のない屈折感の織りなす時期でもある。

そんな青春時代に、中原中也という生の詩人に出遭い、共に生活をする意味を考えてみたい。

人生で、不遇であるとは「良き師に出遇わなかった」ことを意味するが、逆にその人の人生を変える「運命的出遭い」があってもいいのではと思える。小林秀雄が詩を志したが詩人になれず、評論家になるしかなかったとか、関口隆克が詩人(作詞家)にならずに、教育者になるしかなかったとか言うのは言い過ぎだろうか?

中也とそんな運命的な出遭いをした河上徹太郎、大岡昇平らは、同人誌で詩を志した時期もあったが、詩人にならずに、仏文学者・小説家・評論家に向かわせ、後年一流の文学者になった。

一方、中也と同じ時代を共に過ごしたが、私生活的にはかなり距離があった高村光太郎、宮沢賢治、萩原朔太郎らがいる。彼らは、中也の詩と出会い、それを糧に、詩人として大成した。

時代が変わっても、例えば、自称「中原党」と公言する中村稔、北川透などの優れた詩人は多くいる。また詩人であり、評論家であり、思想家であり、・・・・吉本バナナの父親でもある吉本隆明(1924~2012)は歳時記(昭和53年刊)の最初に中原中也を取り上げ、その書き出しに、「わたしの好きだった、そしていまでもかなり好きな自然詩人に中原中也がいる。」と中也の虜(とりこ)になっている本音が出ている。

中也が生きた1907年から1937年とは、日本にとってどんな時代であったのか。1923年、関東大震災、1929年、世界経済恐慌、1931年満州事変が起き、翌年の1932年5・15事件が起きた年に中也が第一詩集「山羊の歌」を出版した。1937年第二次世界大戦勃発の年に死んでいる。翌1938年「在りし日の歌」が出版された。1941年真珠湾攻撃で太平洋戦争没発そして1944年広島・長崎への原爆投下で終戦を迎えた。中原中也は、そんなもっとも過酷な時代に、戦争を称賛する詩や反対する詩を歌わずに、ひたすら自分の歌を歌い続けた稀な詩人である。

しかし、社会は、中也の詩を受け入れなかった。小林秀雄と関口隆克との追悼文は、世の評価を受けず、中也が傷つき、踏みつけられ、孤立し、時に絶望しながら、戦争や社会や他人を恨み、責め続け、愚痴ることなく、自らの歌を歌い続けたことをあるがままに伝えている。

中原中也の歌とは何か?

昭和の高度経済成長期に、平成の平和なときに、多くの人は、会社に於いても、学校に於いても、家族に於いても、内容が変わっても、お互いに、傷つけあい、踏みつけられる生活経験をしてきているだろう。そんな時に、中也の歌は、決して生活の応援歌にはならない。川の流れが、嵐で混濁し、人為的に汚染されてもやがてきれいになるように、ひとのこころの滓(かす)をとり、ひとを一歩前に歩み出させる何かがあると思う。

 

トムソーヤの冒険の作者として、なじみ深い、マーク・トウェ-ンは次の有名な言葉を残している。

「赦し(ゆるし)とは、踏みにじられたスミレの花が自分を踏みにじったかかとに放つ芳香である」

中也の歌には、自分を踏みにじったかかとに放つスミレの芳香に似たものがあるではなかろうか。

追記1

吉田煕生(よしだひろお)による編年体・評伝中原中也(現代詩読本‐1:中原中也1978年思潮社刊

中原中也の祖母コマは、明治22年ビリオン神父によって受洗を受けた。ビリオン神父は、明治22年から26年まで山口で布教をした。そして16世紀にフランシスコザビエルが日本に来て、初めて伝道した場所が山口の大道寺跡であると発見した。中也は、幼小児期に祖母コマと教会に行っていたが、受洗を受けていない。父中原健助は、浄土宗だが、中原中也の告別式は禅宗の寿福寺(臨済宗)で行われた。戒名は放光院賢空文心居士である。

参考文献

文学界:中原中也追悼号(昭和12・12):昭和43年近代文芸復刻叢刊
四季:中原中也追悼号 style=”font-size:12px;”(第32号):昭和43年近代文芸復刻叢刊

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