特定医療法人社団 慈藻会 平松記念病院

011-561-0708

札幌市中央区南22条西14丁目1番20号map

時計 診療受付時間 mail お問い合わせ

文字サイズ

院長コラム

2020-08-15

院⻑メッセージ(42)森⽥療法から学ぶ(1)感情のセルフケアについて

『私(森田正馬)は神経質を治療するのに、催眠術で効果を上げたいと、長い間苦労をかさねた………。
神経質の病的心理を説得する療法も、ずいぶん熱心にやった。赤面恐怖に対しては、半年も一年も催眠(さいみん)療法(りょうほう)と説得(せっとく)療法(りょうほう)を併用して熱心に治療にあたったが、私も根まけして閉口すれば、患者の方もくたびれて、いつとはなしに中絶してしまった。
それで、赤面恐怖など治らないものと一時あきらめたこともあった。・・・・・・・      
論理的に理路整然として患者の観念の不条理を破壊しようと努力すればするほど、かえって実際には 目的に反した結果になることを知るようになって、私の説得法も変化してきたのであった。 』
このきっかけになったのは、Y夫人の症例と思われる。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

50才代の不潔恐怖のY夫人は、5~6年間あちこちの病院で治療を受けた。
森田の家庭療法を受けるべく家人が連れてきたものであった。森田は一年間あずかるという約束であずかった。患者は終日不潔恐怖と梅毒恐怖のために何も出来ない・・・・・・・病気を治そうとする意志もなくて、安逸に思うままにしておけば満足してるという状態であった。森田は患者のプラス面の積極的興味の持てるものが謡曲と仕舞にあることを見いだし、そこに患者の生きる喜びのあることを見出した。ちょうどそのころ、約束の 一年の期限が終わりに近づいていた。患者は治らなければ、ふたたび精神病院に帰らなければならないことを知っていた。 それでも作業として、掃除や着物のほどきもの、料理の揚げものぐらいはできるようにはなっていた。不潔と感じたとき拭く紙数もへり、不潔恐怖や毒物と誤想する物体に直接さわらないための手袋も用いないようになった。また有毒か否かを他人に聞いてたしかめる問いかけを、いっさいしりぞけて、たえられるようになった。このような不問療法的処置にたえられるようになった。
ところがある日、『患者にだしぬけに、わたしの母と一緒に銭湯にいくように厳命した。機は熟していたから患者も直ちに承諾した。その時患者は、ひとりで身体を洗い、そのうえ私の母の身体を洗ってくれた。しかも自分の手拭で人の身体を洗ってやったのである。銭湯に入るのは患者には、二十余年ぶりのことであった。患者のよろこびは一通リでなく、いわゆる「掛金(かけがね)がはづれる」とはこのことではないかと 悟ったのである。・・・・・・・私の経験例のなかで、もっとも長い年月を費やしたものであったが、治療するまえ一ケ月ばかりの間に、・・・・・・・私は患者に、冷静さを失い、感情的に激怒することもあった。ひたすら患者を治してやりたいという私の真剣な気合から出たものであった。・・・・・・・森田は、多くの症例から、神経質の治療で、人のもっている知識にはたらきかけて、改善しようとしたが、限界を感じた。また人の意志にはたきかけて、改善しようとしたが、限界を感じた。残された感情の働きに働きかけたことによって、症状の改善を見たと洞察した。
それを森田は、感情の法則として次のようにまとめている。
第一の法則は「感情はこれを自然に放置すれば消失する」ことであり、その感情に関係あるすべての刺激から遠ざかり、人から隔離する(離れる)ことが、転換の最良かつ唯一の方法である。
第二の法則は、「感情は、これを行動にあらわせば、その強度が弱くなり変換し、消失する」たとえば、いかに熱烈に恋し慕いあって、欠点も美点にみえたとしても、歳月がたつにつれて、感情の熱もさめ、 やはり欠点は欠点に見え出し、物足りなくなく感ずるばかりでなく、いやになることもある。幾年も焦がれぬる人ある性に物足りぬ気のふときざしけるように。
第三の法則は、「感情は之を刺激し、表現すれば増進する」

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

森田正馬と同じ時代に、感情の問題に直面したのは、日本の英語教育のさきがけである文豪夏目漱石ではなかろうか?
漱石は、1895年(明治28年)大学を卒業した後、神経衰弱になり、東京から逃げるように、旧制松山中学に英語教師として赴任する。松山は、正岡子規の故郷である。子規と2ケ月ほど俳句会に参加した   ことが漱石に、思いがけない気分転換をもたらした。翌年、熊本市の第五高等学校の英語教師に赴任した。結婚するも快適な夫婦生活とはいかなかったが、俳人として名声を得た。漱石は、第五高等学校から東京帝国大学に辞令を受けて直ぐに、1900年から1903年まで英語教育法研究のために、イギリスへ国費留学を命じられた。イギリスでの大学生活に馴染めぬまま神経衰弱状態で帰国した。更に悪いことには、 前任者が小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)であった。漱石は、東大で、日本の英語教育の責任者になった。漱石は、西洋であるイギリスとラフカディオ・ハーンに対するコンプレックスと日本人としての責任が入り混じっていたと思われる。
東大を去らざるをえなかった小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、古事記の故郷である松江に住み、日本人と結婚をした。日本の文化をこよなく愛した小泉八雲は、日本の古典の研究に向かい、「耳なし芳一」などの怪談や、日本の文化を海外に紹介する道を歩いた。
漱石は、東大に着任した一年後の1906年、小説草枕を書いている。
草枕は、次の有名な書き出しで始まる。

『山道を登りながら、こう考えた。智に働けば、角(かど)が立つ。情に棹(さお)させば流される。   意地を通せば窮屈(きゅうくつ)だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画(え)が出来る。人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。』

漱石は、英語教育への不安、華厳の滝で自殺した東大生藤村操への教師としての後悔(こうかい)、俳句における正岡子規へのこだわりも、家庭の夫婦や育児の葛藤・・・・・・・相いれない二つのものが、次々と生じてきて互いに勝とうとして対立をし、その対立したものが争うという相克(そうこく)関係(かんけい)をすべて科学的に、芸術的に、道徳的に、きれいに解決することではなく喜怒哀楽、快不快の感情を「あるがままに」受けいれる。そして、  前に向かって、歩こうとした心情がにじみ出ていると思う。

特定医療法人社団 慈藻会 平松記念病院

〒064-8536
札幌市中央区南22条西14丁目1番20号

市電「中央図書館」駅より徒歩1分(駐車場あり)

TEL:011-561-0708(代)

FAX:011-552-5710

外来診療(精神科・心療内科)

9:0011:30
(8:50~受付)
x
13:0015:00 × × ×

※睡眠専門外来の新患は水曜日と金曜日の午前のみです。

※土日診療は予約のある方のみの診療となっております。

※初診の方は予約制になっております

※休診:月曜午後、土曜午後、日曜、祝日

外来担当医表 睡眠外来担当医表