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平松コラム

平松コラム

メッセージ(60) 閑さや岩に染み入る蝉(せみ)の声
2025-09-01
2025・8月盛夏  宗 代次

気象庁では、40℃を超えると「酷暑」日という。

2025年7月30日に岡山県丹波市で41.2℃という記録を作った。
酷暑という漢字をテレビで見て、奥の細道にある「暑湿(しょしつ)」という言葉を思い出した。

松尾芭蕉が旅をした奥の細道に、私の故郷・庄内/酒田もある。

小学校1年生の遠足は、最上川が日本海に出ていく港の見える「日和山公園」であった。そこに「熱き日を海に入れたる最上川」の句碑が立っている。
小学校3年生の時は、吹浦に、「あつみ山や吹浦かけて夕涼み」の句碑がある。
小学校4年時は羽黒山に、小学校5年生のときに、象潟に、小学校6年生の時に、山形・立石寺に、行った。冒頭の俳句は、山寺・立石寺にある句碑である。

芭蕉の俳句は、小学生の記憶力には、意味が分からなくても記憶のどこかに残っている。

1997年1月24日岩波書店から芭蕉自筆奥の細道が発刊された。
元禄2年3月27日、(陽暦では1689年5月16日に深川の庵から旅立った。4月20日に白川関を超えた。松島、平泉、象潟を巡って6月27日鼠ヶ関を超えた北陸に出て、8月28日に美濃大垣に到着した。
奥州の松島から平泉が北限の地で、藤原三代の往時をしのんで、「夏草や兵どもの夢の跡」その後、山寺―最上川を下りて、庄内―象潟を見て北陸へと向かった。
奥の細道にその件(くだり)の文章が次にように書いてある。
【酒田の余波、日を重ねて、北陸道の雲に望。遥遙のおもひ、胸をいたましめて。加賀の符まで百三十里と聞。越後の地に歩行を改て。越中の国、一ぶりの関に至る。此間九日。暑湿の労に神をなやまし、病をこりて。事をしるさじ。】
酒田では、なごり惜しむ日を重ねて、ようやく北陸道の空に向き合えた。加賀の府、金沢まで520キロメートルと聞いた。そのはるかな旅路を思うと、胸が熱くなる。越後に入り、そこを過ぎれば越中の国市振(いちぶり)の関(せき)に至る。此の間九日。暑さと雨の難に精神は疲労し、加えて体調を崩し、病気になった。そのために旅をしるすべき記録はない。

暑湿の表現は、蒸し暑いということであるが、私の実感は、「汗が衣服を濡らし、ベターと体にまとわりついて、ゆっくり歩けるが少しでも坂を上ったり、急ぎ足になると、呼吸も苦しく、一歩も動けない」というものである。此の間9日間が、雨交じりの暑さに、芭蕉も耐えきれずに、9日間の間、筆を入れなかったという記録である。
俳人の感性は、暑さと湿気が心身ともに苦しめ、単なる体調不良ではなく、集中力を維持できない「病として、現在の熱中症を」適切に記録としたところに、驚かざるを得ない。
高校1年生時には、象潟から吹浦までの10数キロメートルの海岸線を歩く、奥の細道を行軍する遠足があった。海岸線は、大小の奇岩が重なり、海に落ちそうになった。また砂越、潮越し、小砂川などの地名があるように、大小の湾曲した砂浜も連なって、美しいが潮の干潮で、変化するので、決して楽な道でない。唯一の救いは鳥海山の伏流水が山すそから、海岸の浅瀬さらに、沖までとうとうと湧き出る。ためにおいしい水をいつでも飲めた。
蛇足であるがこの海岸で伏流水で育つ牡蛎は、夏でも岩ガキとして、格別の美味である。

奥の細道でも【汐風(しおかぜ) 真砂を吹上、雨朦朧(もうろう)として鳥海の山かくる】と記録しているように、酒田―象潟―酒田の旅は、芭蕉は、草鞋(わらじ)を履いて歩いたのだから、難行苦行でもあったのだと思う。芭蕉は、酒田で、医師の淵庵不玉(ふちあんふぎょく•庄内藩主の侍医)に長居をして、体を休めて、北陸道へ旅立った。
そして時に意識もうろうとして、足元もふらつき、「親知らず子知らず」の糸魚川(市振りの関)の難所を過ぎて、北陸路へ、夏の強行軍の峠を越えた。ふっと気が付けば、明日は七夕の日だ。旅も、季節はもう秋に入っている。
文月や六日も常の夜には似ず。
荒海(あらうみ)や佐渡(さど)に横たふ天(あまの)河(かわ)
奥の細道のなかでも、暑湿の続いた旅の峠を越えたエポックメイキングな日ともいえる。特別の思いがあったに違いない。
特に荒海や佐渡に横たふ天河の句は、おそらく荒海や、佐渡には、どうでもいいのだと思う。天河の季語は秋なので、私などには、横たふ天河だけでいいような気がする。
「天の川を見て、空に浮いているような浮遊感しか残らない」この俳句は、読む人に、彦星(ひこぼし)・織姫(おろひめ)のように思う人に逢える希望と横になり、手足をゆったり伸ばしたリラックスを与えるのではなかろうか?
 暑熱の旅という、サウナに入って、暑さを辛抱している交感神経優位の状態から、秋風を背にして、水風呂に入って、副交感神経優位型に転換した、「整う」という心身の状態を芭蕉が表現しているのではなかろうか?

今年の海の日に関する、私の思いはこれにつきます。熱中症に気を付けましょう!





山の日が近くなると石川啄木の歌が思い出される。
 
私にとって、高山というと鳥海山になる。小学校に入学以来、通学路は何時も鳥海山に向かって歩いて行くように登校し、鳥海山を背に帰宅するようなものであった。どこに行っても、いつでも鳥海山が見守っている気がしていた。
 中学3年の夏休みに、40数人の学校登山という行事があった。当時は、鳥海山の途中までの観光道路はなく、2泊3日が普通の登山日程であった。滝の小屋で、一泊をして、お花畑を見ながら頂上を目指した。胸突き八丁は、狭い急坂で、更に山の頂きは、岩場で一人が登って、降りてくると、また登っていくことを繰り返した。頂上では青い空の下に、360度見渡せた。太平洋が見えた。日本海のはるか下には飛島が見えた。南北は、果てしなく山並みが続いた。下山は、御浜(おはま)という山小屋で、キャンプファイヤーをして、2泊目を過ごした。万年雪の雪渓を滑って遊び、帰路についた。この学校登山は、「テニスの相方も一緒で、テニスの部活が終わって、勝ち負けの緊張もなく、ただただ楽しく、ミーハー的な体験であった。」
 
後年、札幌の大学に来て、啄木の一握の砂を読み、この短歌に出会った。
そして、「なにがなしに…」登った鳥海山を思い出した。庄内地方の郷土寮に、山好きの友人がいて、夏休みに鳥海山へ二度登山を試みた。しかし、一度は滝の小屋で泊まり、頂上を目指した翌朝に雨が降り、登山道が急流になり、夕方下山した。次の年の夏休みは、一日目に河原宿(かわはらじゅく)まで登り、お花畑にテントを張り終わったら、雨が降り、斜面に濁流が覆い始めた。びしょ濡れになりながら、慌てて、河原宿の山小屋に避難をした。翌日晴れたがリーダーは、登山の準備ができてないと判断し、登頂を断念した。
  
登山に詳しい人によると鳥海山は、標高2236メートルで、晴れる日が少なく、頂上に立てることが稀であると教えられた。やはりビギナーズラックだったのだ。
 
啄木の歌の高山は、岩手山「岩鷲山(がんじゅさん)2038メートルである。この山麓の渋谷村(しぶたにむら)で育った石川啄木は、朝夕仰ぎ見た岩手山に対する思いが歌われている。山名の由来は、春に鷲状(わしじょう)の雪形が残ることからそう呼ばれているようだ。私は、庄内出身で郷土寮を庄内寮といい、岩手出身の学生は、郷土寮を巖鷲寮と呼んでいた。日の出とともに始めるソフトボールの対抗試合など交流があったものである。
 
啄木のこの歌について考えてみたい。

「なにがなしに……」は、日本語として、次の意味合いで使われる。
1.なんとなく。はっきりとした理由や原因はないが自然と。
2.とにかく。深く考えることなく。

啄木の歌には、「なにがなしに」はこの一句であり、「何がなしに」の表現は3句ある。「何となく」の表現は、1句ある。

何がなしに 

さびしくなれば出(で)てあるく男となりて

三月(みつき)にもなれり

何がなしに
 
息(いき)きれるまで駆(か)け出(だ)してみたくなりたり 
草原(くさはら)などを

何がなしに 

頭(あたま)のなかに崖(がけ)ありて

日毎(ひごと)に土のくづるるごとし

何(なに)となく汽車に乗りたく思ひしのみ

汽車を下(お)りしに 

ゆくところなし

「何がなしに」の歌には、何か心に鬱積したものがある時に「ため息のように」何かモヤモヤしたものがある時に「振り払いたい」表現と解釈しても良いように思える。「何となく」の歌には先の見えない虚しさが見えてくる。

高山(たかやま)のいただきに登りて 
なにがなしに 帽子(ぼうし)をふりて
下(くだ)り来しかな  

 
この歌には、人生の壁や、人生を振り返る場面にいるような解釈の余地のない軽さと透明感がある。
やまの自然に包まれて、なにも考えずに登って下りたと文字通りに、受け取っていいのではと思う。
ひらがなの「なにがなしに」の表現が、多く人々に、山の楽しさを追体験させる力になっているのではなかろうか?
 
一握の砂には、山を歌ったものが十数句ある。

かにかくに 渋民村(しぶたにむら)は恋しかり

おもひでの山 
おもひでの川

ふるさとの山に向ひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな
 
山の日のある8月に、啄木の一握の砂を読んでみるのも良いのではと思う。 

残暑お見舞い申し上げます。



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