理事長メッセージ
院長メッセージ(48)感情のセルフケアについて(6)神経質と神経症について
2022-01-12
2022年1月6日 院長 宗 代次
フロイトが、精神分析を学問として確立したのは、精神分析学入門と精神分析(続)である。
「精神分析学入門」は、フロイト59歳の時の論文である。発表された事情はフロイトの精神分析学(続)の序に書き記されている。
【「精神分析学入門」は1915年から16年にかけての冬学期と1916年から17年かけての冬学期において、ウィーン大学医学部精神科の講堂で全学部雑多な聴講者を前にして行った講義録である。その前半部はノートなしで喋り、その直後すぐにこれを書きとめたものであり、後半部は二つの冬学期に、はさまれた夏、ザルツブルグ滞在中に草稿をつくり、その冬学期にそれをそのまま読み上げたものである。私は当時まだいわば録音機的な記憶力を持っていた。】
【・・・・・・健康といいうる範囲内での神経質と神経症との区別、実用的な点だけに限られます。すなわち、その人に未だ充分に楽しんだり仕事をしたりする能力が残っているかどうかにしたがって健康か神経症かが決められるのです。その区別は、おそらく自由なエネルギー量と抑圧によって束縛されたエネルギー量との相対的関係に還元されるものでしょう。量の問題であって質の問題ではありません。ここに改めてお話しする必要はないでしょうが、この洞察こそ、神経症が体質にもとづいているにもかかわらず、原則的には治癒しうるという確信に理論的な根拠をあたえうるものなのです。・・・・・・・・・・・・・】
神経質と神経症の差は、生活をするエネルギーの相対的量の問題であって、質の問題ではありませんと言っている。その人にまだ充分に楽しんだり仕事をしたり能力が残っているかにある。
そうだとすると臨床精神医学的には、ストレスに向きあうときに、健康的であるかどうかをセルフケアするポイントは、次の3つになるのではなかろうか?
①仕事や勉強に集中できるか?
②休日には、遊びや趣味を楽しみ、気分転換、リフレッシュできているか?
③食事は、おいしく食べているか?
1968年10月わたしは、マルクーゼのエロスと文明を読んでいた。マルクーゼの「エロスと文明」を訳した南博は、解説で、次のように述べている。
(・・・・・・・今日、フロイトの精神分析理論を抜きにして現代の人間と文明を語ることができない。フロイト理論の意味と影響力はまことに大きい。しかしフロイトはほんとうに正しく理解されているいえるだろうか。本書において、著者マルクーゼは、フロイトの源流にまでさかのぼって、精神分析理論を一つの思想として全面的に検討・批判し、フロムをはじめとする新フロイト主義者によるフロイト理論の歪曲を徹底的に批判する。・・・・・・・)
フロイト著作集が日本で出版された1970~1972年のときに、私は、精神科医の駆け出し時代で、読んでみた。精神分析入門は、何を書いているかほとんどわからなかった。
このあたりの読者の事情を見越して、翻訳者の精神分析医懸田克躬(かけたかつみ)は、フロイト著作集第1巻の解説で、次のように述べている。
【・・・・・・古沢平作博士が次のごとき論旨を『精神分析入門』(日本教文社版)のあとがきに述べておられるのをここに引用しておきたい。すなわち、
もし、精神分析を正しく理解しようと思う人には次の提案をしたい、人々は気づいていないが、精神分析を理解する唯一の方法は『精神分析入門』を繰り返し読むことである。一度の読了によっては目的を達せられない。再読し、三読することが大切なのである。それは一読し、再読し、三読する、その間さまざまな経験が次の読了の際の理解を深めるからである。すなわち、知らず知らずの間に浅いながら行われる自己分析が精神分析の理解を可能にしていくのである。・・・・・・】
私は、見透かされたように、一度読んで、くり返し読むことはなかった。従って「一度の読了によっては目的を達せられない」まま今日に至っている。
今回、精神分析入門を読んだのは「悲哀とメランコリー」の論文がこの時期に前後しており、神経質、神経症、悲哀、メランコリー(うつ病)がどのような関係にあるのか、考えてみようと思ったことにある。
【・・・・・・人類は時の流れの中で科学のために二度その素朴な自惚れに大きな屈辱を受けなければなりませんでした。
最初は、宇宙の中心が地球でなく、地球はほとんど想像することのできないほど大きな宇宙系のほんの一小部分にすぎないことを人類が知った時です。すでにアレキサンドリアの学問がこれに似たことを告げておりますが、われわれはコペルニクスの名を挙げなければなりません。
二度目は、生物学の研究が人類の自称する創造における特権を無に帰し、人類は動物界から進化したものであり、その動物的本性の消しがたいことを教えた時です。この逆転は、現代においてダーウインやウォレスやその先人たちの影響のみとに、同時代の人々のきわめて激しい抵抗を受けながら成就されたものです。
自我は自分自身の家の主人公などでは決してありえないし、自分の心情生活の中で無意識に起っていることについても、依然としてごく乏しい情報しかあたえられていないということを、この心理学的研究は証明してみせよう。・・・・・・・・・・・・・・】
現在でも、価値観や発想が逆転することをコペルニクス的転回と使われることがある。フロイトは、人類の科学史の中で、天動説から地動説を唱えたコペルニクスと動物の進化論を唱えたダーウィンを讃え、自分の精神分析という自我に対する新しい科学的根拠をそれらに匹敵する科学の発見であると宣言しているのである。
これは、驚くべきことであり、まさか、本当だろうか?と私の頭は混乱した。ギリシャから始まった哲学は、無に消えるのか?フロイトを理解をすることは地動説やダーウイニズム理解する以上に難しいことであることに改めて気付いた。(この項続く)
フロイド選集1精神分析入門上 改定版 井村恒郎等訳;日本教文社1969年刊
フロイト著作集第一巻人文書院 1971年9月20日初版発行
エロスと文明 H・マルクーゼ著南博訳 1968年紀伊國屋書店刊
フロイトが、精神分析を学問として確立したのは、精神分析学入門と精神分析(続)である。
「精神分析学入門」は、フロイト59歳の時の論文である。発表された事情はフロイトの精神分析学(続)の序に書き記されている。
【「精神分析学入門」は1915年から16年にかけての冬学期と1916年から17年かけての冬学期において、ウィーン大学医学部精神科の講堂で全学部雑多な聴講者を前にして行った講義録である。その前半部はノートなしで喋り、その直後すぐにこれを書きとめたものであり、後半部は二つの冬学期に、はさまれた夏、ザルツブルグ滞在中に草稿をつくり、その冬学期にそれをそのまま読み上げたものである。私は当時まだいわば録音機的な記憶力を持っていた。】
【・・・・・・健康といいうる範囲内での神経質と神経症との区別、実用的な点だけに限られます。すなわち、その人に未だ充分に楽しんだり仕事をしたりする能力が残っているかどうかにしたがって健康か神経症かが決められるのです。その区別は、おそらく自由なエネルギー量と抑圧によって束縛されたエネルギー量との相対的関係に還元されるものでしょう。量の問題であって質の問題ではありません。ここに改めてお話しする必要はないでしょうが、この洞察こそ、神経症が体質にもとづいているにもかかわらず、原則的には治癒しうるという確信に理論的な根拠をあたえうるものなのです。・・・・・・・・・・・・・】
神経質と神経症の差は、生活をするエネルギーの相対的量の問題であって、質の問題ではありませんと言っている。その人にまだ充分に楽しんだり仕事をしたり能力が残っているかにある。
そうだとすると臨床精神医学的には、ストレスに向きあうときに、健康的であるかどうかをセルフケアするポイントは、次の3つになるのではなかろうか?
①仕事や勉強に集中できるか?
②休日には、遊びや趣味を楽しみ、気分転換、リフレッシュできているか?
③食事は、おいしく食べているか?
1968年10月わたしは、マルクーゼのエロスと文明を読んでいた。マルクーゼの「エロスと文明」を訳した南博は、解説で、次のように述べている。
(・・・・・・・今日、フロイトの精神分析理論を抜きにして現代の人間と文明を語ることができない。フロイト理論の意味と影響力はまことに大きい。しかしフロイトはほんとうに正しく理解されているいえるだろうか。本書において、著者マルクーゼは、フロイトの源流にまでさかのぼって、精神分析理論を一つの思想として全面的に検討・批判し、フロムをはじめとする新フロイト主義者によるフロイト理論の歪曲を徹底的に批判する。・・・・・・・)
フロイト著作集が日本で出版された1970~1972年のときに、私は、精神科医の駆け出し時代で、読んでみた。精神分析入門は、何を書いているかほとんどわからなかった。
このあたりの読者の事情を見越して、翻訳者の精神分析医懸田克躬(かけたかつみ)は、フロイト著作集第1巻の解説で、次のように述べている。
【・・・・・・古沢平作博士が次のごとき論旨を『精神分析入門』(日本教文社版)のあとがきに述べておられるのをここに引用しておきたい。すなわち、
もし、精神分析を正しく理解しようと思う人には次の提案をしたい、人々は気づいていないが、精神分析を理解する唯一の方法は『精神分析入門』を繰り返し読むことである。一度の読了によっては目的を達せられない。再読し、三読することが大切なのである。それは一読し、再読し、三読する、その間さまざまな経験が次の読了の際の理解を深めるからである。すなわち、知らず知らずの間に浅いながら行われる自己分析が精神分析の理解を可能にしていくのである。・・・・・・】
私は、見透かされたように、一度読んで、くり返し読むことはなかった。従って「一度の読了によっては目的を達せられない」まま今日に至っている。
今回、精神分析入門を読んだのは「悲哀とメランコリー」の論文がこの時期に前後しており、神経質、神経症、悲哀、メランコリー(うつ病)がどのような関係にあるのか、考えてみようと思ったことにある。
【・・・・・・人類は時の流れの中で科学のために二度その素朴な自惚れに大きな屈辱を受けなければなりませんでした。
最初は、宇宙の中心が地球でなく、地球はほとんど想像することのできないほど大きな宇宙系のほんの一小部分にすぎないことを人類が知った時です。すでにアレキサンドリアの学問がこれに似たことを告げておりますが、われわれはコペルニクスの名を挙げなければなりません。
二度目は、生物学の研究が人類の自称する創造における特権を無に帰し、人類は動物界から進化したものであり、その動物的本性の消しがたいことを教えた時です。この逆転は、現代においてダーウインやウォレスやその先人たちの影響のみとに、同時代の人々のきわめて激しい抵抗を受けながら成就されたものです。
自我は自分自身の家の主人公などでは決してありえないし、自分の心情生活の中で無意識に起っていることについても、依然としてごく乏しい情報しかあたえられていないということを、この心理学的研究は証明してみせよう。・・・・・・・・・・・・・・】
現在でも、価値観や発想が逆転することをコペルニクス的転回と使われることがある。フロイトは、人類の科学史の中で、天動説から地動説を唱えたコペルニクスと動物の進化論を唱えたダーウィンを讃え、自分の精神分析という自我に対する新しい科学的根拠をそれらに匹敵する科学の発見であると宣言しているのである。
これは、驚くべきことであり、まさか、本当だろうか?と私の頭は混乱した。ギリシャから始まった哲学は、無に消えるのか?フロイトを理解をすることは地動説やダーウイニズム理解する以上に難しいことであることに改めて気付いた。(この項続く)
フロイド選集1精神分析入門上 改定版 井村恒郎等訳;日本教文社1969年刊
フロイト著作集第一巻人文書院 1971年9月20日初版発行
エロスと文明 H・マルクーゼ著南博訳 1968年紀伊國屋書店刊